昭和40年02月21日  夜の御理解



  「信心する者は何事にも信心になれよ」と、何事にも信心にならなければならないと  同時に又「信心する者は変人になれ」と仰る。何事にも信心になれよとこう仰る。何事にも信心になる為にはですね、変人にならなければ何事にも信心にはなれないようである。世間の目とか、人の手前とかと言った様な事で、ついこうする事が信心だと思うておってもついそれをまげてしまう。
 信心する者は何事にも信心にならなければならん、為には私共は変人にならなければならない。「信心する者は変人になれ」と「変人とはすぐい事ぞ」とすぐい真っすぐい事ぞとこう仰る。何事にも信心にならせて頂く為に私共は変人にならなければいけない。変人とはすぐい事であると言う事。ね、誤魔化しは出来ません。今日は高芝さん所の、午前中に、あちらの長男の結婚式がここで御座いました。
 で神饌物を全部取り替えさせて頂いて、後から久富先生があの神饌物をし直されておられて気が付かなかったけど、今そこに座ってから気が付いた。それはあれも歪みこれも歪みしておる訳です。神饌物がね。ああ言う様な事が私ですね、歪んでおると思ったら立ち上がって行ってから直したいのですけれども、さぁ祝詞(のりと)座にもう着いたからでは、それも出来ない場合があります。
 ですからあれがあの自分の気持ちの上にそれがちょっと時間が掛りますですね。お詑びさせてもらったり、自分の心の中にすっきりする迄には、それにすらそげんなるのです。ですから心の上にすぐい事がなかったら、神様に心が通うはずはないですよ。そりゃ成程お釈迦様が仰る様に、その嘘も方便とこう仰る。又は親鸞上人が言うておられますように、もう自分が90幾つですかね、亡くなられてから自分のふりこし方を振り返ってご覧になって、本当にこの世の中にこの世の中にはね。
  真の事は真のある事一つもないと言うておられます。皆んな皆んな空ごととこう、信心させて頂いておれば、そういう意味合いの事も分かっておらなければならんと思う。確かに信心というのはほんとうの事の追求ですからね。自分がこれが真実だと、こう例えば思うておっても、一年後にはあれは間違うとった事になる。次の真実な事になっておるから、親鸞90幾つになられてからでもです、ね、真実な事はこの世の中には真と言う事は一つもない。みな空ごとだと。ね。
 けども初めから空ごとと分かっておって、それを平気でなすと言う事はいけません。ですからその場合です、例えばこれはお釈迦様が仰ったように、ね、嘘も方便とその信者がその氏子がです、助かる事の為の空ごとならば、こりゃ私はいいと思うんですね。そりゃここでは私が、こうする事が真実だと思ってもです、ね、それではこちらには合点がいかん。分からない為には、その人が言うておる事。
 私いまあの親鸞上人のというのを読ませて頂いておるんですけれども、親鸞という人は皆さんも御承知のように、あの時代に於て仏教者所謂念仏者がです、妻帯し又は肉食をすると言う事はもう是は破戒も破戒、大変な破戒であった。もう所謂それはもう堕落僧として軽蔑された訳なんですね。けれどもその師匠法念にその事の悩みを打ち明けますと法念は教えております。
 それは決して仏の道にかなわんというのじゃない、妻帯して良いのだと肉食して良いのだと言った様な事を、ねんごろに理解づけてその合点させております。ですから親鸞も安心して妻帯し、又は肉食をあえてした訳なんです。そこには私共のはかり知る事の出来ないような、高い高度な考え方ではありましょうけれどもです、けれどもその事でやっぱり親鸞が一生引っ掛かっておるのであり、苦しんでおると言う事なんです。ね、
  そこに例えばそういう難儀、そういう悩みをもっておると沢山の人がだから助かった訳なんですけれども。なぜかというとですね、それを教えた法念はその人は一生清僧で終わった。清い僧で終わったと言う事。妻帯して良いといい肉食して良いという、その事を教えた法念は一生妻帯せずに肉食せずに清い清僧として終わっておると言う所にですね、やはり親鸞のジレンマがあったようですね。
  ですからこれなんかの場合ですね。そんな事が御座いますですよ私共でも。ね、私ならそれをせん私なら間違いだから、あんたの場合は間違いないからそれはそれでいいんですよと、それでおかげ頂きなさいと言った様な場合があるんです。いうならば私だから嘘を教えておるようにあるけれどもです、それはその人の道が立つ為やら助かる事の為なら、やはりそれも一つの方便と言う事になるのですからこれで引っ掛かりません。
 問題はですね引っ掛かってはいけないと言う事です。私も今日一つ失敗した事があります。今日は親教会のお月次祭でございます。午前中に結婚式がございますもんですから、お祭りにお参りが出来ません。でま明日改めてお参りさせて頂こうとこう思っておりますけれども、関さん達が親子まぁ代表で参って下さった。熊谷さんもいつもお参りになるけれども、ある事でお参りでけなかったし、高芝さんは今日本人だからいつも参って、月次祭たんびんに参っておられますけれども、そのお参りできません。
  それで私は関さんにことずけを致しました。「親先生に宜しく申し上げといて下さい。明日お参りさせて頂きますから、実はこうやってあの親戚に結婚式がありましてから、私と豊美が私は行かんならん。豊美はお手伝いに行かんならんような事で、今日はお参りが出来ませんからどうぞよろしゅう」ちゅうてそのそういうた訳なんです。でそれもここで結婚式があるなんて言う事になったら、又親先生の気持ちを暗くするような事があっちゃならんと、こう思いましたもんですからねそう言ったんです。
  さぁ所が気に引っ掛かる。ねそしたら又あのお月次祭が終わってから、関さんがお参りして見えられましたです。そして言われる事「親先生あなたが言われるとおりに、申しました」という訳なんですね。所があの若先生が帰りよったら「今日関さんあなた方親子だけでも参って来て頂いて本当に有難かった」とこう言われます中にです、今日先程親先生が「あんた方、今日結婚式があるげなが何処の結婚式の」ち言いなさったそうです。ところがどっこい親戚の結婚式じゃろばってん、勝彦は全然知らんもんですから。
 「さぁ知りません」ちこう言うた訳。「親戚の結婚式をあんたが知らんはずはなとけがの」ち、こう言われた。と言う事なんです。(笑)本当に嘘ちゃ言うちゃいけないと思うんですよね。先の方までは考えてなかった。それでその所謂、引っ掛かるわけなんですね。すぐい事じゃないから、まがっておるから引っ掛かるのです。こういうつまらん嘘を言うちゃならんなぁと私はそこを、私変人にならんにゃいけんなぁと私思うんです。それで私の心の上です。
 明日お参りさせて頂いたら実はああた、こげな事で高芝さん所の結婚式で御座いましたもんじゃからと言うて、本当な事を言おうと思わせて頂いたら心がこうスッキリする事が出来た。スッキリする事が出来なければです、神様と通わんのです。ね、御神前で例えば御三方がゆがんでおっても、鉢が歪んでおっても矢張りちょっと時間が掛かります。私共が御神前に出らして頂いたら、まして自分の心の中に真っすぐくないものがあってです、嘘を言いすましたようにありましてもそれは自分の心は許しません。
 その心がですもう神様が許しなさらんのですよ。そんな許されない心で神前に向かって、どうして神様との間に有難いものの交流が頂ける筈が御座いませんです。ね「信心する者は何事にも信心になれよ」と、何事にも信心にならにゃいけません。為にはです「信心する者は変人になれよと、変人にならんと信心はでけん。変人とはすぐい事ぞ」と、こう仰る。ね、ここの所に、私は一つモット-としての信心、但し「この世の事に、例えば真ある事なし」と親鸞が言うておられますようにです。
 本当に真の事はなかろうかと思いますけれども、私共の信心のその過程に於てもです、これが真実だと思う事を行じる事が信心なのです。だからこれが真実だと思う事を、そこをあえて行じる時にある人は、あの人は変人じゃあると言うかも知れません。けどもそれは人の見た目であります。ね、そこの所は真っすぐく、すぐく生き抜かなければ、所謂、神様と肝心要の神様と交流致しません。通いません。ね、そういう意味合いに於て、変人にならなければならんなと思うのです。
   おかげを頂きました。